あも五〇周年キャンペーン 第2弾「あもスイートメモリー」へ多数のご応募をいただき、誠にありがとうございました。
全国から寄せられた作品はどれも素晴らしいものばかりではございましたが、厳正な審査の結果、入賞作品が決定しましたので、こちらに作品とともに発表させていただきます。
「烏梅エッセイ賞」と「優秀賞」の皆様の作品は、広報誌『烏梅(うめ)』にて掲載させていただきます。
烏 梅 エ ッ セ イ 賞
優 秀 賞
佳 作
作 品 集
【烏梅エッセイ賞】あもとワインのマリアージュ
宮城県 省子 様
20代後半から毎年1人、冬にパリに出掛けた私のスーツケースは決まって、新米・お味噌・海苔とあもで一杯で、母は毎回「世界一オシャレな街に旅するというより、あなたはまるで季節の出稼ぎ労働者みたいね」と笑った。渡す相手は日本人相手のガイドをしていたフィリップ。彼が幼い頃、最初にできた親友が隣に住む日本人一家の男の子だったことから日本文化に馴染み、大人になるにつけ、筋金入りの日本通になったそうだ。初めて行ったパリで不注意にもパスポートを落とし、泣きじゃくる私を親身になってお世話してくれて以来、フィリップに日本食を届けたくてパリに向かうようになった。
ワインより水が高価なパリで一切お酒をたしまなかった彼の大好物が和菓子、特にあもは、かつてガイドした日本人客よりお礼にとご馳走になったのをきっかけに日本の逸品になったとかで、パリの乾いた空気の中、しっとりとした求肥とふくよかな小豆は最高!と、いつも至福の時間を愛おしむように味わっていた。そんなあもツアーが突然終わりを告げたのは2015年11月。レストランを襲ったテロに巻き込まれ彼は亡くなった。一緒にいたツアー客をかばって銃弾を受けたという。何ということだ。パリはテロに屈しない、今こそカフェへ出掛けよう、勇気を持って語り合おう。フランス革命をやり遂げた誇りと強靭な魂。トリコロールに照らされたエッフェル塔の前で強くこぶしを握った。
今も1人パリへ行く。旅の友はあもだけ。あもとワインの絶妙なハーモニーを見たら、フィリップは粋なマリアージュだねと、ウインクするに違いない。スーツケースは軽くなったが、パリと日本の懸け橋になった彼への感謝、これからもパリを訪れるであろう人々の深く重厚な想いは未来へと引き継がれるのだ。
【優秀賞】命をつなぎ、笑顔生み出した「あも」
神奈川県 ふかちゃん 様
阪神淡路大震災から今年27年。神戸っ子の私は、当時、震度7の激震地区在住でした。自宅玄関から出られた時には、ガス臭く、道を挟んだ家屋からは炎が上がって、「もうダメかも・・・」変に冷静にそんな思いがよぎったことは今でも忘れられません。
停電、情報もなく、何がなんだかわからないまま余震とともに1日が過ぎ・・・。やむを得ず避難所で夜を明かすことに。周辺は焼け野原となり、そんな状況でも一夜あけると空腹を感じる。
『あ、大好きな「あも」があるはず!!』
危険とは思いつつも自宅へ。モノは元にあった場所などには全くなく、ひたすら探す・・・探す・・・。
ほこりまみれの家財の中に「あも」をみつけたときは、きゅっと抱きしめてしまいました。この1本の「あも」をどうすればいいか、それはそれで悩みました。避難所では人はそれなりに身を寄せ合っている状況。温かい緑茶など用意できるわけもなく、私の心の中にある大好きな「あも」をいただくシーンとはかけ離れていたのですが、乾いた口の中にひろがる優しい甘さに、涙が出てしまいました。ほんの少しずつしか食べていただけなかったのに、「おいしい!」「どこのお菓子?」「どこで売ってるの?」とたくさんの言葉を頂き、なんだかみんながちょっと前向きなコトバを発している状況に、私自身が本当に心身共に力をいただきました。
あんこの「あ」とおもちの「も」で「あも」っていうんですよ。
本当は上級女官の用いる”女房言葉”で、餅を意味するところからきているのに・・・。覚えてもらいたくて「叶匠壽庵さん、ごめんなさい」と思いでした。
震災後初めて口にしたのが「あも」。まさに命の恩人。
あのとき避難所生活を共にした方々もきっと「あも」を愛してくれているはず・・・。今も「あも」をいただくときは、神戸に想いを馳せたり、健在だった父を思い出したり・・・。「あも」がそばにある時間は、今でもずっと特別な時間。
そしてこれからもずーっと・・・。
【優秀賞】悲しみの底に見た光
兵庫県 M・F 様
日頃、私が過ごす部屋には娘「弘子」の写真が掛かっている。その娘にまつわる「あも」の話。
地元の老舗百貨店1階の一角に「叶 匠壽庵」があった。娘は小さい頃からあんこが好きで「あも」はお気に入りの和菓子だった。折に触れ、娘共々店に立ち寄っていた。
ところが、その娘が希少な小児がんに罹り、10年に亘る闘病生活の末、15歳でこの世を去った。地鳴りのするような悲しみだった。おそらくこれまでもこれからも2度と経験することのない悲しみだと思う。
数か月経ったある日、娘が生前お世話になった方々へ心ばかりのお礼をと、お店を訪ねた。店長の王さんに娘が亡くなったことを伝えると王さんは驚きと共に目を真っ赤にしながら私たちの話を静かに聴き入ってくれた。支払いを済ませ、店を出ようとした時、紙袋にふと目をやると「御供」と書かれた覚えのない「あも」が入っている。驚いて尋ねるとスタッフの方々からの個人的な気持ちだという。あり得ない出来事だった。その後も盆や命日に何度となく戴いた。その暖かな光にも似た思いやりや慈しみの心を今もって忘れることはない。
6年後、突然、百貨店閉鎖が新聞発表された。ずいぶん迷いはしたが、スタッフ全員と共にお店が姫路に存続できるよう、芝田冬樹さんに手紙を書いた。正直なところ、お店の名残惜しさより王さんたちと会うことのできない寂しさが勝っていたのだと思う。
芝田冬樹さんから、時於かずして丁重な返信を戴いた。その返信の早さと慈愛ある文面に感銘した。今もその手紙は大切に仕舞ってある。
今、「叶 匠壽庵」姫路支店はあの時と変わらぬスタッフと共に変わらぬ空気のまま駅前直近の百貨店で営業を続けている。そして出会いは今も続いている。
【優秀賞】だいじょぶだぁ、こりゃ
宮城県 おやかまっさん 様
「こりゃ だいじょぶだぁ」
私の病室のベッドを囲む娘夫婦たちの前で夫は言った。
狭心症の手術直後、私は強度のストレスで治療中だったメニエール病が、最大級で再発した。手術台から車椅子にも移れず、ストレッチャーで病室に運ばれた。目を少しでも開けると強烈な回転性めまいに襲われ、微動ださえできなくなった。
耳元で婿さんが「お母さん、明日から関西出張ですけど、何かほしいもんありませんか?」と声かけてくれた。
それまでめまいの症状であえいでいた私が間髪を入れず、
「それなら叶 匠壽庵の「あも」と「香煎茶」買うて来てんか」
婿さんもだが、私も京都出身。和菓子には目がない。
しかし、病室にいた一同、唖然として、顔を見合わせて笑ったそうだ。
独身時代は勤務を終えて、よく河原町のデパ地下で「あも」を買って帰ったものだ。今は通販もあり、便利にはなったが、そこは主婦。行くとあらば、送料はかからない。
夫は、この世の終わりさながらであえいでいるのに、好物への執念を失わない私の一言は一笑に付するに余りあるものだったようだ。
「食い気は墓場までだな、お前は」と。
10年経った今でも、よく出る思い出話で、笑われている。
そんな話を滋賀県在住の大親友にしてからは、毎年懐かしいふるさとの名物と共に「あも」を必ずしのばせて送ってくれている。ありがたや、ありがたや。
【優秀賞】北国マダムの癒し
神奈川県 soy 様
もう20年以上前。正月も明け、日常が戻り始めた1月上旬、実家には毎年大量のあもが届いた。実家は東北の町で家族経営の小さな呉服店を営んでおり、正月に京都へ呉服の仕入れに行くのが恒例であったのだが、お得意様へ送るあもも大量に仕入れていたのである。
当時、インターネットはまだ普及しておらず「お取り寄せ」という言葉もない頃だった。京都から運ばれたあもはお客さまにたいそう喜ばれた。それは「あものために着物を買ってくれているのではないか」という疑惑さえ浮上する熱狂ぶりであり、父はそんなマダムたちの話を晩酌をしながら教えてくれた。が、私は子供時代あんこが苦手で、あもの美味しさを理解できず包み紙の裏で作る封筒の工作に熱中していた。
時は流れ、私はいい大人になった。都会での生活が長くなり、あんこも食べられるようになった。何かのご褒美の日にはあもを美味しくいただく。(なんと都会では割とすぐに手に入る!)
食べながら思う。北国の冬は長く、厳しい。あもは、雪の毎日を生き抜くマダムのモチベーションだったに違いない。手が凍りそうな掃除や洗い物、腰が痛い雪かきも、あもを食べたら一瞬で癒されたのではないだろうか。あの喜ばれようは、平凡な日常の彩っていたこと間違いない。
本業そっちのけに、あもを愛し仕入れてきた父と伯母も数年前天国へ旅立った。
大切な人を亡くした経験がある方なら、「あぁもっと話しておけばよかった、故人ならこんなとき何と言うだろう」と思うことがあろうが、あもに関しては故人の遺志は200%引き継がれている。大切な方に何かを送るときは、あもで決まりなのである。
あもが繋いでくれた思い出、絆、幸せはなんと20有余年の歳月を経てとんでもない心の支えになっていることに気づく。
あもを作ってくれている職人さん、お店に運んでくれる運送の方、販売員さんのバトンリレーでここまで来ているということに心から感謝しつつ、これからもまたお世話になります。
【佳作】もう一切れ、あと一切れ
滋賀県 T・H 様
「近くまで来たんだからご挨拶しなきゃと思って、デパートに寄って“あも”を買って、持って行ったの」
「あもって?」
「あもってお菓子よ。小豆の中に求肥が入っていて、とても美味しいのよ」
―――人気作家・江國香織さんの新刊小説『ひとりでカラカサさしてゆく』を読んでいて、思わずごくっと唾をのんだ。作中人物も、私と同様、“あも”が好物のよう。
“あも”との出会いは小学校の頃、祖母の家に預けられた時だった。その時、おやつが出てきたのが“あも”だった。正直に言おう。私はがっかりした。和菓子よりも洋菓子党だったから。そんな私の落胆を察したのか、祖母は、「だまされたと思って食べてみて」と手で示して、ほろほろっと笑った。私はおそるおそる一口含んだ。上品な甘さの小豆、その中から溶け出てきそうに柔らかい羽二重餅、それらが一体となって口の中で溶けた。苦手だったあんこを初めて美味しいと思った。それに、後味はさっぱりしていていくらでも食べられそうだ。2切れをぺろっと平らげた私は、それだけでは物足りなくなった。祖母が席を外したのを見計らい、包みから、もう一切れ、あと一切れ、としているうちに、半分以上減ってしまった。祖母は気付いていただろうが、何も言わなかった。
あれから四半世紀経ち、今では自分で“あも”を買って、90歳の祖母を訪ねている。普通のお餅と違って口の中でとろけてしまうから、小さく切れば祖母が喉につめる心配もない。また結婚前に夫の実家を訪れる際の手土産にして好評だったので、以来、帰省の折は“あも”と決めている。この前、叶 匠壽庵草津店の店頭で、初老の上品な女性とそのお嬢さんが、“あも”を手に話しているのが聞こえてきた。「ママ、今度は1人で丸々食べないでね」「気付いたらなくなっちゃうの。少し多めに買っておこう」――「私もです」と心の中で頷きながら、手に取った。
【佳作】幸せな時間
埼玉県 順 様
京都駅近くのホテルの早朝バイトから娘が帰るのを待っていた。久しぶりの娘の部屋。
1年前引越しと入学式出席を慌しく済ませ、埼玉へひとり帰った夜道は雨に涙を紛らせた。京都での学生生活は娘にとって財産になると信じつつも携帯が鳴る都度はらはらした。
大通りで転び怪我を負いながら自転車を引き一時間かけてアパートに帰った夜。這うように水枕やおかゆを買いに出た日。修理や勧誘の人との接し方も一から覚えていった。
「お母さん、一緒に食べよう!」
息を切らして帰るなり娘が差し出した、はんなり小豆色の小箱。「あも」と名も雅でかわいい。
バイト帰りにデパ地下を通るのが楽しみと言う。宝石のような洋菓子、お惣菜お弁当のコーナーにも朝食前の身が吸い寄せられるけれど、バイトの時給に換算すると買えない、見るだけで楽しいのと屈託がない。
「でも、お母さんが来たら買おうと決めていたのがこれ」
洋菓子よりお惣菜より、京都で和菓子の風雅に魅せられたと娘は言う。デパ地下で一番心奪われる、とも。大学では京都の伝統文化に触れる科目もあり貴重な茶道の経験も得られた。桜、紫陽花、清流、紅葉、雪に南天・・・ 季節を先取りした和菓子の繊細さ鮮やかさに陶然と見入る娘が目に浮かんだ。
道端の花や空、店先に並ぶ季節の野菜の写メールをよこし、時に京都滋賀の寺社を散策し、暑さ寒さ不自由さに直面しながらの一人暮らしは、自然を見つめる細やかなまなざしをも育ててくれた。お稽古で出会いその美味しさに驚いたという「あも」をいただきながら娘と2人、幸福な時間を過ごした。
ほろほろと優しいあんが、切り口も真白く柔らかな羽二重餅を包み込む。
まるで母娘のようだ、と思った。
日々の困難にすぐに手を差し伸べることは叶わなくても、娘を大切に想う心はいつも変わらない。
次の春には、桜の羽二重餅をそっと抱いた「あも」をお土産に京都を訪れよう。
娘の頬も喜びの薄紅に染まるだろうか・・・。
【佳作】「あも」のこと
滋賀県 H・K 様
ずっと昔、婚家でつらいことがあると、決まって実家に電話をかけていた。
「もしもし、おばあちゃん?」
「はぁ、うちやぁ・・・」
戸惑うような応答はいつもこのフレーズで変わらない。その柔らかな声を聴きたくて電話をしているのかもしれなかった。
母とともに、私を慈しみ育ててくれた祖母は、明治の後期に京都で生まれ、その地に生きた人だった。彼女の話した「京ことば」ー今はもう死語となってしまったものも多いが、ふとした折にそれらのことばに出会うと、たまらなく懐かしく、心地よく穏やかな気持ちになる。「あも」もそんなことばのひとつ。「あも焼こか?」「大きなあもやなぁ」・・・「あも」とは餅のこと。その白く柔らかな餅の形状を優しい音で言い表している。
その「あも」の名のお菓子があることを知ったのは、私が滋賀に来てしばらく経った頃だっただろうか。多くの人が使わなくなってしまった、このいとおしい京ことばの一つを、まるで水中に沈んだ美しい落ち葉を拾いあげるかのように菓銘にした「あも」。名前のとおり、白く柔らかな「あも」が、それはそれは美味しい餡をぐるりとまとっている。このお菓子は私のお菓子…そんな親しみを感じたのを覚えている。
「おばあちゃん、滋賀に「あも」ていうお菓子があってな・・・」
祖母と、一緒にいただこうと話してその日を楽しみにしていたが、それはとうとうかなわなかった。「あも」はいつも身近にあったのに・・・。
月日を経て、叶さんのお店で、贈り物のカタログで「あも」に出会うたび祖母を思い出す。「あも」は、もう仏前に供えるしかなくなってしまったが、お供えのたびに「やらかいあもやなぁ・・・」そう言うにちがいない、あの優しい声がよみがえってくる。
【佳作】あもはまだ半分
兵庫県 TK 様
百貨店に行きますが、何か買ってきましょうか。
「あも!」と言うのが、うちのおばあちゃんのいつもの返事です。
よわい、94歳。ご主人の定年後は、ふたりして世界中を旅して美味しいもの探しをしていました。それも80過ぎて引退すると、国内の美食巡りを始めます。近くはマイカーで、遠くは電車を乗り継ぎ、夫婦仲良く、ご馳走プラス名所や温泉。伴侶は白寿で召されたあとも、余生を楽しんでいる義母ですが、年とともに食べる量は減り、贅沢なものを少しずつという食事になってきました。
しかし、メインのお料理は減らしても、デザートは一向に減らす気はありません。「3時だ。おやつは出ないのかな?」と聞かれることもしばしば。甘いものが大好物、特にあんこの和菓子に目がないのです。あもは、誕生してから50年だよ、と言うと、「私の半分。まだまだ」と。
何がまだまだかよくわかりませんが、とにかくあもが目の前にあるとご満悦です。桜やよもぎ、栗のあもなどもいだだいて、栗がたいそう気に入ったようでした。今はもちろんこしあんのあも。「甘さも口当たりも丁度いい塩梅で、美味しいねえ」と、目を閉じゆっくりかみしめます。
私はそんなおばあちゃんと、あもでお茶する時間が大好きです。今日はどんな旅行のエピソードが聞けるかしら。お茶のお代わり、入れましょうね。
【佳作】異国で味わったひと切れ
滋賀県 M・N 様
「このご時世、何処にも出かけられないけどどうしてる」と、友人から久々の電話。近況話などしていると、突然、「あの時のあれ、おいしかったなー〝あも〟と言ったっけ」と、彼女。
あの時とは、今から20余年前、所は中国。「天津商科大学裏千家茶道短期大学」に留学中のことです。2年生の春節の休みに帰国した折、おみやげに持ち帰り、茶道の授業の時、そっと出しておいたのです。
「ウワーあずき!お餅もとろけるー!」とひと切れづつのお菓子は大受け、しばし日本モードになりました。18才から私のように還暦間近の者まで、1クラス十数名が一緒に、日中文化学科で学んでいました。週2回の茶道授業のお菓子は、街に売られている〝それらしい菓子〟や時には皆んなで手作りしたりしていました。
日本各地から来ている人たちは、その菓子を始めて口にする人もいて、「〝あも〟てどんな意味?」問われた私は「お餅の別の呼び名と思うけど・・・うちの祖母もそう呼んでたしー。大津のお菓子おいしいでしょ。よくお遣い物にもするのよ」
すると今度は、それぞれのふるさとのお菓子自慢が始まったりしました。
別の日、中国の先生に「ひと切れですが」と差し上げたことがあり、その時先生から「千里送鵝毛」の言葉が返ってきました。―はるばる遠方から鵞鳥の毛のようなわずかな贈り物が届く。その物はわずかであっても、志は厚い―後にこの故事成語について詳しく解読していただきました。そのものが、甘くておいしい物なら、幸せ感もアップすると、私は勝手に付け加えておきました。
異国で一緒に過ごした仲間との思い出話しに盛り上がり、すっかり長電話になったことでした。「では、近い内に〝あも〟送るね、そちら富山の〝月世界〟もおいしかったわね」の一言も忘れず伝え、電話を切りました。
皆さまの あも のお話を拝見いたしまして、とても嬉しく、
またこれからもよりよい あも をお届けしなければ、と身が引き締まる思いです。
これからもあもともども、叶 匠壽庵をよろしく願いいたします。